終戦工作の真相【1】

日本の第二次世界大戦終戦については、色々と説があるものの、基本的には1945年の6月以降に、天皇を意を受けて、工作が始まったものの、遅すぎた、和平に対して消極的過ぎたという論調になることが多いように思う。以前、東條に関する項でも和平に関する異説を挙げたが、巷間に流布されている説に対する異聞を述べてみたい。
今回は『海軍大将米内光政覚書』という本で述べられている事実を挙げようと思う。

四、スイス電にたいする大臣の考
これは謀略の疑いがある。ダレスが本国(アメリカ)に打電したらしいということだから、その返事が来るのを待っても遅くはない。*1

これは、スイスから送られてきた、米国諜報員ダレスから持ちかけられた和平工作に対しての米内光政の意見である。これだけでは、ダレスの工作が、どういった内容なのか良く解らないと思うが、編者が内容について注釈をしている。出典は、保科善四郎の『大東亜戦争秘史』らしいが、原典は入手できていないので、『海軍大将米内光政覚書』に注釈されている内容を紹介したい。

それはスイス駐在海軍武官の藤村義朗中佐が、米国政府の諜報員アレン・ダレスとの間に日米単独講和推進の話し合いをしたという海軍省への電報報告である。六月二十五日のことで、スイス駐在の笠信太郎氏(朝日新聞特派員)の協力を得て秘かに工作を進めたというものである。これは「原則としてソ連が対日参戦をする前、米国は日本と単独講和を行ないたい」*2

スイス駐在海軍武官の藤村義朗中佐が、米国政府の諜報員アレン・ダレスとの話し合いにより、ソ連参戦前に日本と単独講和を行いたいと持ちかけられたとしている。ソ連参戦前というのは、ソ連が参戦すると、ソ連のアジアにおけるプレゼンスが増加するので、その前に講和したいとの意味があったのであろう。この交渉は1945年6月頃の話であり、親ソ連的な立場であったフランクリン・ルーズベルト死後の話なので、一応の信憑性があると思われる。
この単独講和の条件として、以下の内容が挙げられている。

天皇制は存続させる
・南洋の委任統治領も現状維持で認める*3
・和平会議には大臣、大将級の人物例えぽ野村吉三郎海軍大将を全権大使として派米させる
・野村大将用飛行機は米国が提供する*4

という条件であり、現実に行われた無条件降伏要求に比べると随分と寛大な条件であったことが窺われる。
問題は、この和平交渉が現実には進展しなかった点であるが、これも同書で描写されている。

私はこれを全面的に受入れた方がよいと考えます。かりに先方から欺かれるようなことになっても、実情を明かにすればかえって士気は昂揚し、決してマイナスにはならないと思います。

このように保科善四郎が意見具申したところ、米内光政海軍大臣は同意し、豊田副武軍令部長も同意したが、陸軍と外務省が不熱心であったために頓挫したと書かれている。
陸軍側の応答は以下の通りである。

どうせイタリアのバドリオ政権がやられたと同じ目にあわされるのが関の山だから、同意できない。*5

外務省側の態度については、以下のようであったと述べている。

内大臣の命を受けて自ら外務省に東郷外相を訪ね……「海軍が全面的に支持するから、外務省が主体となって進めなさい」と強く進言した。……しかし外務省も、どうしてもこの工作の見透しをたてるのに熱が入らない。……ついに六月二十二目、大臣の名で親展電報が藤村のもとに到着し、藤村の和平工作は不成功のうちに幕をとじた。*6

陸軍側も不熱心であったことは読みとれるが、外務省も全く協力的で無かったことが読みとれる。この講和条件が事実だったとすると、結果論からすると、史実に比べ非常に好条件であったことがわかるが、日本の首脳部は、こういう好条件を自ら捨て去ってしまったようなのである。

*1:高木惣吉 『海軍大将米内光政覚書』 光人社 1988年2月28日 P126

*2:高木惣吉 『海軍大将米内光政覚書』 光人社 1988年2月28日 P126

*3:現代日本人の記憶には薄い所と思われるが、第一次世界大戦の結果、日本は南洋諸島に勢力圏を持っていた

*4:高木惣吉 『海軍大将米内光政覚書』 光人社 1988年2月28日 P127

*5:高木惣吉 『海軍大将米内光政覚書』 光人社 1988年2月28日 P127

*6:高木惣吉 『海軍大将米内光政覚書』 光人社 1988年2月28日 P127