終戦工作の真相【3】

昭和天皇終戦について語られる時に良く取り上げられるのが、近衛上奏文問題である。近衛上奏文とは、1945年初頭に、天皇重臣を個別に呼び出して意見を徴した時に近衛文麿が提出した文書のことである。近衛は、戦争が敗北必至であること、このまま戦争が続行すれば共産主義革命が起こる可能性があることなどを意見具申し、早期和平を求めたところ、以下のようなやりとりがあったと伝えられる。

最後に天皇より「もう一度戦果を挙げてからでなければ終戦も中々難しいと思ふ」との御意見ありたるに対し「その様な戦果が挙がれば誠に結構と存じますが、近い将来にそんな機会がありませうか、半年、一年先では役に立たないと存じます」とお答えした。*1

以上の内容は、1945年2月14日の応答である。この状況証拠のみを以て昭和天皇は、1945年6月まで終戦をする気がなかったと解釈されることがあるが、他の史料を考え合わせると、ここで述べられているのは、文字通り、当時の状況下では、講和が難しいであろうということに過ぎないと思われる。
例えば、リデル・ハートは以下のように述べている。

一九四四年のクリスマス直前、ワシントンのアメリカ軍情報部は日本のある外交消息筋からの報告として、日本には和平派が撞頭し地歩を占めつつあるという知らせを受けていた。この消息筋が予測しているところによれば、日本を戦争に導いた東条内閣のあとを受け、七月に組閣された小磯(小磯国昭)内閣は、やがて鈴木提督(鈴木貫太郎海軍大将、枢密院議長)のもとにおける平和志向内閣に引き継がれ、この内閣が天皇の支援のもとに交渉を開始するであろうということであった。この予測は四月に現実のものとなった。*2

この記述によれば、1944年末には、日本では和平派が台頭しつつあり、当時の内閣総理大臣であった小磯国昭内閣の後の内閣が和平交渉を開始するであろうことをアメリカ軍情報部は外交消息筋の情報により知っていたということになる。
これに関しては、あまり日本では聞かれない内容であるが、当時の政府要人との親交が深かった、細川護貞は、木戸内大臣から、東條内閣の後に中間内閣をつくり、その後に和平内閣を作るという構想を聞いていたという文章が残っている。

木戸侯は東条の次に直に和平内閣を作るには反対にて、一応中間内閣として寺内をすゑては如何との意見−公に初めて漏せりと。夫れは木戸侯は、軍の内部に未だ相当東条を支持する者あるを以て、軍内部の動揺を恐れてなり。(公は之に対し意見を述べず、尚研究の要ありと答へられたりと。)而して何れ此の内閣も二三ケ月にして倒壊すべきを以て、其処で宮様を首班とする和平内閣を作るべしと。*3

小磯内閣は2,3ヶ月という短期間では倒壊されず、和平内閣の首班も宮様にはならなかったが、概ね構想通りに動いたといえるだろう。
また、リデル・ハートは、天皇が1945年初頭から内密に和平工作を始めていたことを明確に書いている。

すでに二月の段階で、天皇の発意のもとに、ソ連に対し「中立国として」日本と西欧連合国の和平瀬踏みの仲介役を引き受けて欲しいという接近がなされていた。この働きかけはまず、東京のソ連大使館を通じ、次にはモスクワ日本大使館を通じて行なわれた。しかし全く進展をみなかった。ソ連側はこの働きかけについて、ひと言も他国へ伝えなかった。*4

興味深い内容であり、日本の史家からは聞かない話でもあるので、参考までに英語原文も提示しておく。*5

Already in Feburuary, following Emperor Hirohito's initiative, approaches had been made to Russia begging her 'as a neutral' to act as an intermideary in arranging peace between Japan and the Western Allies. These approaches were made, first, through the Russian Ambassador in Tokyo, and then through the Japanese Ambassador in Moscow. But nothing developed. The Russia had not passed on any word of the approach.*6

ここにおいて、1945年2月の段階で、天皇の発意により、ソ連に対して、連合国に対する和平の仲介役を引き受けて欲しいという接近がなされ、東京のソ連大使館、ソ連本国に対し交渉をしたものの、ソ連側は他の連合国に何もアクションをしなかったとされている。ソ連が動かなかったのは、ドイツ降伏後に、対日参戦してアジアの権益を奪取することを決定していたからであろうが、このような交渉がされたということは、連合国側の歴史家により書き残されているのである。
また、このような交渉があったということを、ソ連は明白には連合国に告げなかったが、1945年5月末にアメリカ大統領の個人的使節として、ハリー・ホプキンスがモスクワを訪問した時に、スターリンから多少の情報を得たということも書かれている。

彼が「和平の探り」が「日本のさる筋から入れられ」つつあることを明かしたのは、この談合においてであったが、それが両国大使を経由しての正式の働きかけであることはついに打ち明けなかった。*7

一つ言えることは、1945年6月まで和平に対する具体的な動きが全く無かった、天皇は和平を考えていなかったなどという説は単なる伝説であるということだ。実は結ばなかったが、和平に向けた努力は確かにあったのである。

*1:服部卓四郎 『大東亜戦争全史』 2007年6月25日 P876

*2:リデル・ハート 『第二次世界大戦』 中央公論新社 1999年10月7日 P478-479

*3:細川護貞 『細川日記 上』 中公文庫 2002年8月25日 P257 (日記の日付は1944年7月8日

*4:リデル・ハート 『第二次世界大戦』 中央公論新社 1999年10月7日 P479

*5:残念ながら一次史料は不明であるが、英米側の史料が出典と思われる

*6:B.H.Liddell Hart 『History of the Second World War』DaCapo Press edition 1999

*7:リデル・ハート 『第二次世界大戦』 中央公論新社 1999年10月7日 P480