終戦工作の真相【7】

終戦工作については、既に何回かにわたって、巷間に流布している説への疑問を呈してきたが、先にも取りあげている、J.F.C.フラー『制限戦争指導論』の中に、スチムソンの興味深い述懐が記載されている。なお、スチムソンは太平洋戦争を通じてアメリカ陸軍長官を務めていた人物である。

「戦後おこなわれたインタビューで明らかになったことであるが、日本の大部分の閣僚達は、最終的に同意した条件と実質的に同じ条件をその年の春にすでに受諾する用意があったのである」*1

スチムソンは、日本の大部分の閣僚達は、最終的に同意した条件、つまり、天皇制存続の存続のみを主眼とした降伏条件を1945年春には呑む用意があったということを明らかにしている。これは、過去に紹介したリデル・ハート等の記述と合致する。
d:id:royalblood:20090508:1241777957
d:id:royalblood:20090508:1241791108
また、このような状況に対する情報資料をアメリカは入手していたということについてもスチムソンは言及している。

「このような日本の一般的態度に関する情報資料をアメリカ政府は活用できたはずである。」*2

なお、このような、情報資料をアメリカが入手していたということは、d:id:royalblood:20090508:1241777957に引いた、リデル・ハートの著作でも述べられている。
更に、スチムソンは、具体的な内容についても踏み込んでいる。

「最後に降服した時の状況からすれぽ、天皇を存続させる意志あり、というアメリカの態度をもっと早期に、しかも明確にしておけば、戦争をもっと早く終らせることができたであろう。この行動方針は一九四五年五月の時点で、グルー臨時国務長官やその側近達が主唱していたことなのである。」と*3

対日戦を早期に決着するためには、天皇制の存続ということのみを早期に明確にしておくことが非常に重要であったのであり、しかも、この主張は開戦直前に駐日大使を勤めていたグルー等によって、実際に助言すら受けていたということを打ち明けているのである。そして、歴史的事実として日本政府が、ポツダム宣言を受諾するにあたって唯一要求した条件は、この点だったのである。
なお、これらの、このスチムソンの述懐の原出は『On Active Service in Peace and War』P371-372に在るということである。
スチムソンの述懐に続けて、フラーは自らの評論も付け加えている。

無条件降服の政策によって生じた政治的・戦略的近視がなかったら、戦争は一九四五年五月に終らすことが間違いなくできた。*4

既に、リデル・ハート等が無条件降伏要求に否定的な論評をしている*5ことは紹介しているが、フラーもまた同様の立場をとっている。*6
更に、フラーは、このような連合国側の誤断は、極東においてソ連を利するだけの結果に終わったと批判している。

連合国に益するような極東の平和を獲得するためには、五月の時点で戦争を終結させることが極めて重要であった。もしその時点で戦争を終結させえたなら、ロシアは極東に介入できなかっただろう。それ故に、ロシアの介入により生じた破壊的結末は回避されえたことなのである。*7

このような見解は、先述の通り、リデル・ハートによっても指摘されている*8
なお、フラーは、これらの考察の上で、原爆投下も戦争終結のためには不要であったとも指摘している。

*1:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P447

*2:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P447

*3:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P447

*4:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P448

*5:この件については、当ブログ「無条件降伏要求についての同時代人所見」シリーズを参照されたい

*6:但しアメリカ政府は非公式に、対日講和工作を行っていたという説もあるd:id:royalblood:20090506

*7:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P448

*8:d:id:royalblood:20090430

ABCD包囲網考【18】・まとめ

私事多忙で、こちらのブログもしばらく更新できていなかったが、長らく書いてきたABCD包囲網について、私の考えをまとめてみたい。
・言葉自体は、太平洋戦争勃発前から使われていた。
尾崎秀実の評論*1やグルーの日記*2にあるように、日本人のみならず、連合国側の外交官ですら日記の中で使用していたということが確認できる。
・実体としてABCD諸国からの共同歩調による経済制裁はあった
東條英機の細かい指摘*3は検討を要するとしても、当時の英国首相*4や、同時代を生きた連合国側の歴史家ハート*5、フラー*6、モリソン*7等も、英米蘭は共同歩調をとって、日本にとって致命的な経済制裁を行ったと述べているのである。
・オランダが経済制裁に参加していなかったという話は全くのデマ
オランダは、日本の要求に対してかなり妥協的な態度を見せていたことは確か*8だが、最終的には英米と歩調を合わせて経済制裁を行ったのである。*9
・日本の中国政策が遠因となって英米蘭に敵視されるようになった
これは大方の論者の一致した見解であると思う。イギリスは、さほど日本を敵視していなかったにも関わらず、強硬なアメリカに引きずられたというような見解もあるようではあるが*10

ABCD包囲網考【17】・東條英機の供述

今回は、日米開戦時の首相であった、東條英機の回想を出典にとりたい。東條英機に関しては、回顧録や、日記のようなものは、少なくとも発表されたものとしては存在しないはずだが、東京裁判に際して提出された宣誓供述書が近年出版されている。記述の客観性や信頼性に関しては、疑問のある向きもあると思うが興味深いソースであるとは思う。
今回は、原著の記述スタイルから、引用よりも、要約した方がわかりやすそうなので、要約スタイルで内容を紹介したい。
◎1940年〜1941年6月頃までの情勢

  • 1940年7月、アメリカのハル国務長官は、イギリスのビルマ経由での中国国民党政府支援禁止に反対している*1
  • 1940年10月には、アメリカのルーズベルト大統領は英国、および、中国国民党政府を援助する旨を演説した*2
  • 1940年12月30日にアメリカのモーゲンソー財務長官は中国国民党政府に武器貸与の用意がある旨を演説した*3
  • 1941年5月、アメリカのクラケット准将は中国国民党政府支援のために重慶に到着した*4
  • 日本としては、石油の他、米、ゴム*5といった物資に関しても輸入に依存していた*6
  • タイ、フランス領インドシナ*7の要人はシンガポールの英国勢力と連携しつつあるという情報があった*8
  • フランス領インドシナは、日本に対する米の輸出を、1941年6月分以降について激減させようとした*9
  • 1940年、イギリスはタイにおいてタイ米60万トンという大量の買い付けを図り、日本の輸入を妨害した*10
  • フランス領インドシナのゴム年産6万トンの内、日本は1万5千トンを年々輸入していたが、1941年、アメリカは最大量のゴム買い付けをフランス領インドシナの領事に命じ、日本のゴム取得を妨害した*11
  • イギリスは自国植民地に最大量のゴム取得を命じ、日本のゴム取得を妨害した*12
  • イギリスは1941年5月中旬に、植民地に日本と日本円使用地域へのゴムの全面禁輸を行った*13

◎オランダとの交渉

  • アメリカ、イギリスからの石油輸入が制限されつつあったため、1940年9月以来、オランダ領東インドとの交渉に全力を尽くしたが、次第にオランダ側が敵対的になり、1940年6月10日頃には事実上決裂した*14,*15
  • オランダ外相は1941年5月上旬に挑戦に対しては、いつでも応戦するとの挑戦的な言動をしていた。*16

◎フランス領インドシナ進駐と全面的な経済制裁について

  • 日中戦争の勝利のため、中華民国政府の補給ルートを断つ必要があり、アメリカ、イギリス、オランダの南方地域における軍備拡大、禁輸措置による必需物資の入手妨害といった点に対応するために、フランス領インドシナ進駐が必要になった*17
  • 日本政府とフランス政府*18は1941年7月21日に共同防衛の了解をさせ、同23日には細目の協定も成立し相互の了解のもとに進駐を行った。*19
  • フランス政府との協定に関して、ドイツに斡旋を求めたことは事実であるが、ドイツに拒否されたため、ドイツを介して圧力をかけたという事実はない*20
  • 1941年12月7日のアメリカ大統領の親電*21によれば、フランス政府は共同防衛のため、日本軍の進駐を許したのであり、インドシナに対して攻撃を加えた事実や意図はなかったと信ずると述べていた*22
  • 日本政府はアメリカ側から、戦争に追い込まれるような全面的経済制裁を受けるとは考えていなかった*23,*24
  • 日本はフランス領インドシナ以上には進出しないことをアメリカに伝えていた。*25

◎フランス領インドシナ進駐前後の出来事

◎全面的な経済制裁後に関する記述

  • 1941年7月26日の対日経済封鎖開始により、日本は決定的な危機を迎えた*33
  • アメリカ、イギリス、オランダは同日に対日資産凍結を実行した*34,*35
  • 1941年8月26日、ニュージーランド*36首相は、同国内の基地を、アメリカ、オーストラリア、オランダが共同使用することを認めた*37
  • 1941年8月末、アメリカ大統領ルーズベルトは、軍事使節中国国民党政府に派遣する旨を表明した*38
  • 1941年8月14日には、米英の共同宣言が発表された*39,*40
  • ルーズベルトは議会に国家非常事態の存在の承認を求めた*41
  • 1941年8月19日に、フィリピンのケソン大統領は、アメリカ参戦の時はフィリピンも協力する旨を言明した*42,*43
  • 石油不足により、日本海軍は2年後には戦闘力を喪失する見込みであった*44
  • 石油を必要とする日本の重要産業は1年以内に麻痺状態に陥ることが予測された*45,*46
  • これらの事情にも関わらず、第三次近衛内閣、東條内閣は日米交渉の継続を継続した*47,*48

初めに述べているが、史料の性格も考えると、全てにおいて、これらの記述がニュアンスまで含めて正確なものかどうかということについては疑問がある。しかし、事実関係については、概ね真実ではないかと思われるし、少なくともこれらの記述をもとに考察を深めていくという点については充分有用なものであると思う。

*1:東條由布子編 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 ワック株式会社 2006年8月16日 P65 --参考文献

*2:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P65 --参考文献

*3:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P65 --参考文献

*4:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P66 --参考文献

*5:自動車のタイヤ等に用いる重要な戦略物資であった

*6:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P69-70 --参考文献

*7:おおむね、現代のベトナムラオスカンボジアを指す

*8:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P70 --参考文献

*9:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P70 --参考文献

*10:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P70 --参考文献

*11:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P70 --参考文献

*12:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P67--参考文献

*13:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P70 --参考文献

*14:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P71 --参考文献

*15:決裂の経緯に関しては来栖三郎が述べているがd:id:royalblood:20090603とらえ方は東條とは相当異なる

*16:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P71 --参考文献

*17:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P64 --参考文献

*18:ナチスに降伏し影響下にあったヴィシー政権を指す

*19:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P71 --参考文献

*20:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P72 --参考文献

*21:天皇宛の親電を指す

*22:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P72  --参考文献

*23:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P73 --参考文献

*24:当時の首相であった近衛も予期していなかったようであるが、幣原喜重郎のように、これを予見していた人間もいたd:id:royalblood:20090611

*25:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P83 --参考文献

*26:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P89 --参考文献

*27:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P90 --参考文献

*28:当時イギリス自治

*29:当時イギリス領インド

*30:当時イギリス領

*31:エジプトはイギリス領ではないが勢力圏だった

*32:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P89 --参考文献

*33:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P85 --参考文献

*34:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P86-87 --参考文献

*35:他の資料を検討するとオランダは2日遅れて行動したと記述されているので同日という記述は誤りと思われるd:id:royalblood:20090602,d:id:royalblood:20090609

*36:当時イギリス自治

*37:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P89 --参考文献

*38:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P89 --参考文献

*39:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P90 --参考文献

*40:d:id:royalblood:20090602に会談の経緯を載せている大西洋会談後に発表された大西洋憲章を指す

*41:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P89 --参考文献

*42:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P90 --参考文献

*43:フィリピンは当時、アメリカの植民地であり独立国ではなかったので協力は当然ではある

*44:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P90 --参考文献

*45:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P90 --参考文献

*46:石油不足のもたらした致命的な影響については、ナイ教授d:id:royalblood:20090608リデル・ハート等が指摘しているd:id:royalblood:20090609

*47:前出 『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』 P101, P121 --参考文献

*48:リデル・ハートは、忍耐強く交渉を続けた努力を特筆に価すると述べているd:id:royalblood:20090609

ABCD包囲網考【16】・昭和天皇の回想

歴史家や連合国の政治家の叙述を主にして、ABCD包囲網考を書いてきたが、今回は名目上の開戦責任者であった昭和天皇の回想を取りあげたい。基本的に昭和天皇の日記や手記といったものは、宮内庁が厳重に管理しているため、一般の目が届く範囲に流出することはほとんどないし、そういったものが存在しているのかどうかということもわかっていない。今回取りあげる『昭和天皇独白録』は、天皇の側近として仕えていた時期があった寺崎英成氏の遺稿が、アメリカで発見されたという経緯で一般に流出したものであり、史料の信用度に関しては論争があるものの、なかなか貴重な史料となっている。
以下は各国の対日経済制裁が発動した後の、昭和16年9月頃の情勢について述べたものである。

総理になつた東条は、九月六日の御前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であつた。*1

当時の日本の置かれた状況下で、最大の問題は石油の調達であったと述べられている。また、強硬な主戦論者であったと言われる、東條英機が、開戦を避けるために検討を重ねたということも興味深い一文である、東條に関しては別途まとめて触れる機会もあると思う。

更に、天皇は、当時、実用化の目途が立ちつつあった、人造石油を利用して石油を調達するという案があったことにも触れているが、日本の工業生産力では、到底需要に見合うだけの生産が確保できそうもなかったということを述べた上で、次のように述べている。

実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自然の勢と云はねばならぬ*2

石油の輸入禁止によって、最終的な勝利の可能性が低くても、戦った方がよいという考え方が決定的になったと述べている。このあたりは、昭和天皇の考え方を批判する見解も多いと思うが、連合国側の歴史家の評論を見ても、当時としては自然な結論だったように思う。
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d:id:royalblood:20090610
d:id:royalblood:20090611
この『昭和天皇独白録』は、どのような史料だったのか明白には、わかっていないが、戦後の回想だったということは判っている。GHQ側に提出した弁明史料であったという説もあり、史料としての重要性を軽視する向きもあるが、私としては、天皇の弁明になっている部分も多少あるように思うが、国家元首の生の声を書き取ったものであるという点で面白いものであると思う。

*1:昭和天皇独白録』 文春文庫 1995年7月10日 P84

*2:昭和天皇独白録』 文春文庫 1995年7月10日 P84

ABCD包囲網考【15】・米戦史家の記述

ABCD包囲網考では、イギリス人の書いたものや所感を取りあげることが多くなっているが、今回はアメリカ人戦史家のサミュエル・エリオット・モリソンの著書を取りあげてみたい。
アメリカが一連の対日経済制裁を行ったという記述の後に、以下のようなくだりがある。

Now, in the second half of 1941, the British and the Dutch cooperated in both freeze and embargoes; and as Japanese oil stocks dwindled, the government found itself in a dilemma. *1

1941年後半には、イギリスとオランダがアメリカに協調して、資産凍結と禁輸措置を実行して、日本の石油備蓄は枯渇の危機に陥り、政府はジレンマに陥ったとある。モリソンは、協調して実行された政策*2であると明記している点に留意するべきだろう。
なお、ここでの、ジレンマは、アメリカの要求をのんで石油を入手するか、対米宣戦をするかということである。

*1:Samuel Eriot Morison 『The Two-Ocean War』 Naval Institute Press 2007/4/6 P42

*2:cooperated

ABCD包囲網考【14】・興味深い英国人談話

J.F.C.フラー、リデル・ハート等の英国人は、開戦の責任を必ずしも日本の側だけのものとしておらず、より直接的な引き金は、むしろ連合国側の経済封鎖にあったと述べていたことは過去の日記で既に書いた。
d:id:royalblood:20090609
d:id:royalblood:20090610
こういった見方については、日本側の史料『大東亜戦争全史』にも面白い記述がある。
これは、昭和19年6月20日に、イギリスの軍需生産大臣オリバー・リットルトンが、ロンドンの米国商業会議所における茶話会で述べた発言ということである。

米国が戦争に追ひ込められたと云ふことは歴史上の改作狂言である。米国が日本をして次の如き限界にまで追ひ込んだのである。即ち日本人は、米国人をパールハーバに於て攻撃するを余儀なくせらるるまで強圧されたのである。*1

イギリスの要人が戦時中に、「アメリカが、日本によって、戦争に追い込まれたというのは嘘であり、アメリカが日本を真珠湾攻撃をする程に追いつめた」と言っていたというわけである。イギリスは、どちらかというとアメリカにつり込まれる形で反日に転じたd:id:royalblood:20090529のであるから、プライベートな席でこのような見解が出ることも不思議というほどではないだろう。なお、残念ながら、この談話の一次史料は不明である。

*1:服部卓四郎 『大東亜戦争全史』 原書房 P131

ABCD包囲網考【13】・幣原喜重郎の回想

前日のブログで、フランス領インドシナ進駐に際して、近衛文麿幣原喜重郎の間で議論があった旨について述べた*1が、今回は、その内容について取りあげたい。
会談の日時は、1941年7月頃のことと思われる。この頃、幣原喜重郎は政権の中枢から離れて在野生活をおくっており、近衛文麿は総理大臣として政務を執っていた。この時、幣原にとっては思いがけないことであったが、突然、面会を申し込まれたと幣原は述べている。この時、近衛は、

「いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました」*2

と幣原に伝えた。幣原は、船が出航したことを近衛に確認した上で

「それではまだ向うに着いていませんね。この際船を途中、台湾かどこかに引戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか」*3

と述べると、

「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」*4

と近衛は答えた。

「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」*5

何故、近衛が幣原に相談を持ちかけたのかは定かではないが、相談を受けた幣原は、フランス領インドシナ進駐が、大戦争を巻き起こすであろうということを既に予測していたのである。このような幣原の予測が想定外であったのか、近衛は「そんなことになりますか」と、目を白黒させるばかりであったという。近衛の現実認識能力の欠如を示す挿話であると思う。
こういった状況の中で幣原は、日本軍が既に上陸したならば、交渉をしても無益であるが、そうでないならば、一旦、軍を引き返させて、日米交渉を継続させ、平和解決に全力を挙げるべきだと進言した。これに対して近衛は以下のように応えた。

「それはどうしてでしょうか。いろいろ軍部とも意見を戦わし、しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない。こちらから働きかけることをしないということで、ようやく軍部を納得させ、話を纏めることが出来たのです。それではいけませんか」*6

近衛も軍部との調整に苦慮している様子はうかがえるが、駐兵するだけで、戦争ではないという辺りに認識の甘さが感じられる。
幣原は、さらに反対論を続けた。

「それは絶対にいけません。見ていてご覧なさい。ひとたび兵隊が仏印に行けば、次には蘭領印度へ進入することになります。英領マレーにも進入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。私はそう感ずる。もし私にご相談になるということならば、絶対にお止めする他ありません」*7

幣原は、フランス領インドシナに進駐することが、オランダ領東インド、イギリス領マレーに侵入することにつながることであると既に指摘していたのである。アメリカ、イギリス、オランダが、経済封鎖に出なかった場合、日本が、このような挙に出たかどうかということは不明だが、これら三国が幣原の指摘したような展開を危惧して封鎖を行い、幣原の予測は現実となったのである。*8
幣原のこのような観測を聞いた近衛は顔面蒼白になって、

「何か他に方法がないでしょうか」*9

と、幣原に重ねて質問したところ、幣原は以下のように答えた。

「もう一度勅許を得て兵を引返す他に方法はありません。それはあなたの面子にかかわるか、軍隊の面子にかかわるか知らないが、もう面子だけの問題じゃありません」*10

会談は、これで打ち切られ、結局のところ、歴史は、幣原の予期した通りの経過をたどったのである。幣原は、この会談を不愉快なものであったと言っている。
近衛は、近衛上奏文などで美化されることも度々あるが、日米戦は近衛政権時の政策によって不可避になったと言っても過言ではないのである。開戦時の宰相として東條英機の責任を問う声は多いが、開戦を決定づけた政策を実行した首相は、近衛文麿なのである。近衛に関しては、一連のやりとりを検討すると、現実認識能力に欠け政策実行力の無い政治家だったという印象を受ける。

*1:d:id:royalblood:20090610

*2:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P209

*3:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P209

*4:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*5:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*6:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*7:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210-211

*8:但し日本は、その後の交渉で、フランス領インドシナ以上への進出する意志はない旨をアメリカに伝えている。また、東條は、ルーズベルトが発した12月7日付けの天皇宛の親電で、フランス領インドシナ進駐について日本に侵略的意図は無かったと信ずると述べている。これに関しては、東條英機の宣誓供述書を取りあげる時にあらためて述べる

*9:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P211

*10:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P211