ABCD包囲網考【12】・フラーの記述

既にフラーの著作では邦訳された『制限戦争指導論』を「ABCD包囲網考」の中でも取りあげているが、彼の著作『The Second World War』は、第二次世界大戦に限定された内容であるため、対日政策について若干詳しく論評している部分がある。邦訳は私の知る限りでは存在しないので、今回は、原著から引用することにする。

By 1941, Japan found herself so completely bogged in China that either she would have to call the war off or else cut the supply lines of her enemy. *1

「1941年以来、日本は、自分自身が完全に中国の泥沼にはまりこんでいるのを認識し、戦争を中止するか、中国の補給線を断つかの選択を迫られた」と述べている。続けて、

The latter demanded the closing of the Indo-China ports and the severance of the Burma Road from Lashio to Chungking.*2

「後者の選択肢は、インドシナ半島の港を封鎖し、ラシオから重慶に達するビルマロードを切断することが要求された」。日本が実際にとった選択肢はこちらであったが、このように、フラーの記述は中国の補給線封鎖のためにフランス領インドシナ進駐が必要になったと明記しており、先に紹介したリデル・ハート等の記述よりも具体的である。

This meant war with Britain, and, almost certainly, also with the United States who, throughout, had been financing China.*3

「これはイギリスとの戦争を、また、アメリカは終始一貫して中国に資金援助を行っていたため、ほとんど確実にアメリカとの戦争をも意味していた。」としている。フランス領インドシナに侵入した時点で、英米と日本の衝突は予見できたとしているのである。なお、このような予測をしていた者は日本の有力者にもいた。終戦後に総理大臣になった幣原喜重郎は、日本のフランス領インドシナ進駐に際し、近衛文麿から意見を求められた時に戦争になるから中止すべきと答えたとしている。この幣原と近衛の問答に関しては、別に項目を立てて紹介したいが、当時の首相である、近衛はフランス領インドシナ進駐によって英米と戦争となるとは考えていなかったようである。

France, since her defeat, being unable to protect Indo-China, on 21st July, 1941, agreed to its temporary occupation by Japan.*4

「フランスは欧州戦線での敗北により、インドシナを防衛することが不可能になり、1941年7月21日に日本による一時的な占領に同意した」ここでは、日本のフランス領インドシナ進駐がフランスの同意を得て行われたものであると明白に書かれている。

Three days later Japanese warships appeared off Camranh Bay, and, to call a halt, on the next day President Roosevelt announced the freezing of Japanese assets and credit in the U.S.A.--about £33,000,000 in value--and Britain, besides doing the same, renounced her commercial treaties of 1911, 1934 and 1937 with Japan.*5

「三日後*6に日本の戦闘艦がカムラン湾に現れ、そして、駐留が指令された。次の日、アメリカ大統領、ルーズベルトは3300万ポンドに及ぶ、日本の在米資産の凍結を宣言し、そしてイギリスも同じように行動し、日本との1911年、1934年、1937年の通商条約を廃棄した」とあり、さらに続けて

Soon after the Netherlands joined America and Britain. *7

「すぐにオランダもアメリカとイギリスに合流した」としている。オランダの経済制裁アメリカ、イギリスとの協同歩調によるものであったということはフラーは疑問にも思っていなかったということになると思う。そして、フラーは、これらの経済措置を以下のように論評する。

This was a declaration of economic war, and, in consequence, it was the actual opening of the struggle.*8

「これは、経済戦争の宣言であり、そして、これに続く、現実の闘争の開始であった」としている。この記述から考えると、フラーは英米蘭の経済制裁が対日戦争の直接のきっかけとなったと考えていたと言えるであろう。
この本では、ABCD国の関係、すなわち、アメリカが中国への資金援助を行っており、中国への補給線切断はアメリカへの戦争を意味するといった内容、アメリカ、イギリス、オランダの共同歩調による経済制裁について、一通り述べられている。
『The Second World War』も著者のネームバリューや内容から考えて邦訳が存在しないのが不思議な本である。なお、『制限戦争指導論』に関しては、原著の『The Conduct of War』も持ってはいるのだが、筆者は、あまり英語が得意とは言えないので、全く手を付けていない。こちらに関しては、復刊してくれた原書房と、訳者の中村好寿氏に感謝したい。

*1:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P127

*2:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P127

*3:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P127-128

*4:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P128

*5:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P128

*6:1941年7月24日

*7:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P128

*8:J.F.C.Fuller 『The Second World War』 Dacapo Press edition 1993 P128

ABCD包囲網考【11】・リデル・ハートの叙述

既に10回に渡り、当事者の断片的な記述や、アメリカの研究者の所見といったものを取りあげてきたが、今回は、このブログでも何度も取りあげているリデル・ハートの『第二次世界大戦』での記述、評価について検討していきたい。なお、筆者は、上村達雄氏訳の日本語版を愛読しているが、今回は原文のニュアンスを味わうため、英語版を引用しながら進めたい。
ハートは、ヒトラーがフランスと低地諸国*1を占領した後、日本はフランスの無力という機会を捉えて、脅威的な態度を示しながら、フランスの了解の元に、防衛的な進駐をフランス領インドシナに行ったことに対し、ルーズベルトは1941年7月24日に日本の軍隊を仏領インドシナから撤退するように要求し、その要求を強化するため、7月26日にアメリカ内の日本資産凍結、石油の禁輸措置を行ったとしており、イギリスとオランダもこれに追随したとしている。イギリス、オランダの追随についての、原文は以下の通りである。

Mr Churchill took simultaneous action, and two days later the refugee Dutch Government in London was induced to follow suit--which meant, as Churchill had remarked, that 'Japan was deprived at a stroke of her vital oil supplies'. *2

チャーチルは同時に行動を取り、二日後にはロンドンのオランダ亡命政府も同様の行動をとった。チャーチルはこれについて日本は石油供給の生命線を奪われたと論評した」としている。この辺りは、以前取りあげた、チャーチル回顧録の記述と、ほぼ同様である*3
注目するべきは、これらの国の行動に対する論評である。

In earlier discussions, as far back as 1931, it had always been recognised that such a paralysing stroke would force Japan to fight, as the only alternative to collapse or the abandonment of her policy.*4

「1931年に遡るような早い時期の議論でも、このような、自国の崩壊か、国策の廃棄の二者択一を迫るような、強烈な措置は、日本に戦争を強要するものであると認識されていた」と述べている。つまり、ハートの見解からすれば、このような経済制裁は、日本を戦争に追い込むことは、それが行われた時点で自明であったと考えていたということになる。

It is remarkable that she deferred striking for more than four months, while trying to negotiate a lifting of the oil embargo. *5

「日本が、戦争の開始を4ヶ月以上も行わず、その間、石油禁輸措置の解除交渉に努めたことは特筆に価する」としている。日本は、致命的な経済制裁を受けながらも、なお平和的な解決を模索する姿勢を捨てなかったとハートは評価しているのである。

The United States Government refused to lift it unless Japan withdrew not only from Indo-China but also from China. No Government, least of all the Japanese, could be expected to swallow such humiliating conditions, and such `loss of face'. So there was every reason to expect war in the Pacific at any moment, from the last week of July onwards. *6

アメリカ政府は、日本が、インドシナからの撤退だけでなく、中国からも撤退しない限り、禁輸解除を拒否するとした。いかなる政府でも、少なくとも日本の政府は、このような屈辱的な状況、そして面子を失うことを許容することは想定できなかった。」としている。ここでは、「No Government」 = 「いかなる政府でもできない」というような強い口調を使っていることに注目するべきであろう。
全般的に、リデル・ハートは連合国側の措置が日本を戦争に追い込んだものであると述べているのである。
なお、ハートは、1930年代に陸軍大臣の非公式な顧問を務めたこともあり、いわゆる働き盛りの時期に直接第二次世界大戦を見ていた、同時代人の歴史家・戦史家であったということは、この文章を読む上で留意するべき点であると思う。
もっとも日本の中国政策に関しては、ハートは批判している部分がある。

From 1931 onward the Japanese were aggressively engaged in expanding their footholds on the Asiatic mainland at the expense of the Chinese, who were weakened by internal conflict, and to the detriment of American and British interests in that sphere.*7

「1931からの日本の前進は、攻撃的な交戦であり、内戦により弱くなっていた中国の犠牲のもとに、勢力範囲をアジアの主地域に拡大させ、アメリカとイギリスの権益を損なっていた」としている。

In that year they had invaded Manchuria and converted it into a Japanese satellite state. In 1932 they penetrated China itself, and from 1937 on pursued a consistent effort to establish their control of that vast area *8

「これらの年月の内に満州は日本の衛星国となった、1932年には彼らは中国本土を貫通し、そして1937年からは広大なエリアを日本のコントロール下にしようという努力が一貫して追求された」このような論評も残しており、日本の政策を全面的に肯定していたわけではない。しかし、日本側に全面的に責任を押しつけるような記述にもなっていないことには注目するべきであろう。

*1:オランダ・ベルギーを指す

*2:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

*3:d:id:royalblood:20090602

*4:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

*5:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

*6:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

*7:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

*8:B.H.Liddell.Hart 『History of the Second World War』 Dacapo Press edition 1999 P199

ABCD包囲網考【10】・米有力研究者の叙述【2】

本日は、ナイ教授の『国際紛争 理論と歴史』に関する検討の続きになる。

アメリカは日本への石油の禁輸措置によって日本の南進を阻止しようとした。「アメリカは日本の首に手綱をかけて,時々締め上げてやる」と,ローズヴェルト大統領は言ったものである。*1

アメリカ政府が、資源を盾にとって、日本を思いのままに動かそうとしていたということが読みとれる叙述である。
また、ナイ教授は、当時の国務次官補であったディーン・アチソンの日本は戦争に踏み切らないであろうという見解について述べている。アチソンの考えの根拠は以下のようなものだった。

日本人が合理的なら,アメリカへの攻撃は日本の破滅以外の何物でもないことは明らかだからだ*2

今日の立場から大観すれば、肯定されるであろう論評だが、日本には、どのみち大したことが出来ないというような蔑視意識が透けて見えるような叙述である。
だが、当時の日本人はアチソンのようには考えていなかったことにもナイ教授は言及する。

しかし日本人は,対米開戦をしなければ,どのみち最後には敗北にいたると感じていた。日本は石油の90%を輸入に依存していたので,輸入が絶たれれば,海軍は1年ももつまいと計算していた。したがって,戦争を始める方が,徐々に絞め殺されるよりもましだ,と日本は決断したのである。*3

アメリカが日本を軽視する一方で、日本は当時、石油の90%を輸入に依存していたため、自国の崩壊を招くくらいなら対米開戦を断行して南方の資源を確保するべきである、といった方向に政府は流れていったと書かれている。この時、アメリカは、交渉の余地を完全に残していなかったわけではないが、日本への石油供給再開の条件の一つとして、中国からの撤退を要求していた。これは、日本に、経済的に決定的に重要とみなしている地域から駆逐されるおそれがあるという考えを与えたため*4、受容はされなかった。
そのため、日本側は、

「きわめて危険かもしれないが,軍事作戦はまだ生き残りの希望を与えてくれる」*5

といった考えを持つに至ったのである。
このような考えについて、ナイ教授は以下のように述べている。

日本の視点からすれば,日本が戦争に向かうことは完全に非合理というわけではなかった。というのも,日本の見るところでは,それは最も悪くない選択肢だった*6

悪くない選択肢といっても、ドイツがイギリスを破り,奇襲攻撃を受けてアメリカの世論が揺らげば,交渉による和平の道もありうるというような、優勢を収められる根拠が希望的観測に拠っているような選択肢にすぎなかった。この点について当時の日本軍首脳部の情景を塚田攻陸軍参謀次長の言葉を引いて次のように表現している。

開戦の場合の見通しは明るくない。平和的解決の道はないかと,みなが考えている。「心配するな,たとえ戦争が長引いてもすべての責任をとる」と言える者は,どこにもいない。他方,現状維持は不可能である。したがって,不可避的に,開戦やむなしという結論に達するのである。*7

開戦の場合の見通しは明るくないのが、わかっているが、現状維持政策はアメリカの方針により採られるべくもなかったので、不可避的に開戦やむなしという結論に達してしまったと述べている。一方でナイ教授は日本には他の選択肢があったことも指摘する。

もとより,日本には中国と東南アジアでの侵略を改めるという選択肢はあった。だが,それは拡張主義的,好戦的な見解をとる軍部の指導者たちには考えられないことであった*8

確かに、この選択肢は理論上は存在したと思われるが、中国との二国間交渉や国際条約により積み上げてきた権益を一気に喪失しなければならないような選択肢は取れなかったであろうことは、リアリスト的な見解を示す歴史家や当事者によって指摘されている。例えば、後で紹介することになる、リデル・ハートは、そのような立場をとっている。
最後に結論としてナイ教授は以下のように述べている

日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりも非道い結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた*9

結局のところ、日本の既得権益保全しようとする外交と、米国と友好国の国益保全しようとする米国の封じ込め外交は、双方とも失敗に終わったと考えるべきではないだろうか。

*1:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*2:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*3:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*4:中国権益の確保を侵略的行為と即断する向きもあるが、実体は、そう単純ではなかった。d:id:royalblood:20090518,d:id:royalblood:20090517

*5:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*6:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*7:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P133

*8:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P134

*9:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P136

ABCD包囲網考【9】・米有力研究者の叙述【1】

今回は、アメリカのジョセフ・S・ナイ氏の太平洋戦争に関する叙述を取りあげたい。ナイ氏はソフトパワー論で有名な、アメリカにおける政治学分野での有力な研究者である。今回参照している『国際紛争 理論と歴史』は、古代から現代に渡る国際紛争の教科書であり、太平洋戦争を取りあげている部分はごく一部に過ぎないが、それだけにコンパクトにまとまった記述となっている。

日本はまず中国を犠牲にして拡張した。中国での野蛮な戦争のために,日本は中国国民党を支持するアメリカと外交上の紛争に陥った。*1

日本の外交政策が中国にとって不利になるものであったため、中国を支持する勢力が強かったアメリカとの対立路線に陥ったということが端的に述べられている。このような見解は、かつて紹介したゾルゲの分析とも合致しており、妥当なものであると考える*2。なお、一方的に中国を支持し、日本と対立するようなアメリカの政策が正しかったものかどうかについては、ジョージ・ケナンや、ジョン・アントワープ・マクマリーのように第二次世界大戦前後の時代を生きたアメリカ人にも疑義を呈する向きもある。こういった意見もいずれ取りあげたいと思う

*1:ジョセフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』 有斐閣 2007年4月10日 P132

*2:d:id:royalblood:20090529

公務員は市民の召使い?

今日、6/4付けのCNN Student Newsのスクリプトを見ていたら、civil servantという表現が出てきた。直訳すると「市民の召使い」となるが、辞書を引いてみると「公務員」という訳だった。日本の公務員も「市民の召使い」であるという自覚を持って欲しいものだ。

ABCD包囲網考【8】・1941年11月頃の英米の予見

ABCD包囲網に関する記述も既に8回目となった。今回もJ.F.C.フラーの『制限戦争指導論』から、関連の記事を紹介する。

11月5日*1チャーチルルーズヴェルトに次のような書簡を送った。「日本はいまだ最終的決定を下しておりません。どうも天皇が制止しているようです。われわれがこのことについてプラセソシア*2で話し合った際、貴下は時間をかせぐ旨を言い出されました。現在までのところ、この政策は非常にうまくいっています。しかしわれわれの共同禁輸政策は確実に、日本をして平和か、戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります。(The Second World War Vol.III,p526-527)」
*3

挙げられている出典は、チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』の完全版であると思われる。この記述によれば、1941年11月初頭には、アメリカはイギリスに戦争準備のための時間稼ぎをすることを述べており、対日禁輸政策が日本を追いつめつつあることを自覚していたということがわかる。ここの文面からは、英米が協調して対日政策を行っていたということは、以前とりあげた邦訳ダイジェスト版のチャーチルの叙述*4に比べ、さらに明らかであろう。また、「最終的決定」を天皇が制止しているという書き方から考えて、戦争が選択されることを予見していたように思う*5
フラーのこの本は、18世紀以降の戦争史についての包括的な著作となっているが、第二次世界大戦に関してもコンパクトながら、出典も充実しており、見逃しがたいものであることに改めて気付かされる。

*1:1941年

*2:大西洋会談の行われた場所

*3:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405

*4:d:id:royalblood:20090602

*5:本来なら原文も検討したいところではある

ABCD包囲網考【7】・英米の共同政策の実態

1941年8月前後の対日政策における、英米の共同姿勢に関しては、J.F.C.フラーが『制限戦争指導論』の中で、簡にして要を得た記述を行っている。今回は、これを出典にとりたい。
1941年8月8日から8月13日に行われた大西洋会談において、チャーチルは次のような要請をアメリカに対して行ったとしている。

私はアメリカ側に、六ヵ月間われわれの援助を停止してでも、いまただちに対日宣戦布告をやってほしい、その方が援助を倍増してやるが宣戦しないというのより好ましいと述べた*1

これに対してルーズベルトは、以下のように答えたという。

私は決して宣戦布告をやるわけにはいかないでしょうが、戦争を開始することはできるでしょう。私が議会に宣戦布告を要請しようものなら、議会はそれについて三ヵ月間は議論するでありましょう*2

これらの記述については、フラーはチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』の完全版3巻を出典にしていたようである。
そして、ルーズベルトは、チャーチルに対して以下のような観測を述べたという。

アメリカが攻撃をしかけなくても、アメリカは極東で戦争に突入することになるでしょう。かくして究極的勝利は確実なものとなるでありましょう。*3

これに関しては、出典は、議会討論*4となっているので、かなり信憑性が高い話であろうと思う。いずれにせよ、この会談で、チャーチルは直ちに対日宣戦布告をするようにルーズベルトに要請し、ルーズベルトは宣戦布告はできないが、アメリカから攻撃をしなくても対日戦争に突入することはできると述べていたわけである。
また、この会談の最中、日本に対し強硬な文書を送ることをルーズベルトは約束し、実行に移した旨も記載されている。

*1:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P404

*2:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405

*3:J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405

*4:Parliamentary Debates 5th Seriese, Vol. 377, col. 607