ABCD包囲網考【13】・幣原喜重郎の回想

前日のブログで、フランス領インドシナ進駐に際して、近衛文麿幣原喜重郎の間で議論があった旨について述べた*1が、今回は、その内容について取りあげたい。
会談の日時は、1941年7月頃のことと思われる。この頃、幣原喜重郎は政権の中枢から離れて在野生活をおくっており、近衛文麿は総理大臣として政務を執っていた。この時、幣原にとっては思いがけないことであったが、突然、面会を申し込まれたと幣原は述べている。この時、近衛は、

「いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました」*2

と幣原に伝えた。幣原は、船が出航したことを近衛に確認した上で

「それではまだ向うに着いていませんね。この際船を途中、台湾かどこかに引戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか」*3

と述べると、

「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」*4

と近衛は答えた。

「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」*5

何故、近衛が幣原に相談を持ちかけたのかは定かではないが、相談を受けた幣原は、フランス領インドシナ進駐が、大戦争を巻き起こすであろうということを既に予測していたのである。このような幣原の予測が想定外であったのか、近衛は「そんなことになりますか」と、目を白黒させるばかりであったという。近衛の現実認識能力の欠如を示す挿話であると思う。
こういった状況の中で幣原は、日本軍が既に上陸したならば、交渉をしても無益であるが、そうでないならば、一旦、軍を引き返させて、日米交渉を継続させ、平和解決に全力を挙げるべきだと進言した。これに対して近衛は以下のように応えた。

「それはどうしてでしょうか。いろいろ軍部とも意見を戦わし、しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない。こちらから働きかけることをしないということで、ようやく軍部を納得させ、話を纏めることが出来たのです。それではいけませんか」*6

近衛も軍部との調整に苦慮している様子はうかがえるが、駐兵するだけで、戦争ではないという辺りに認識の甘さが感じられる。
幣原は、さらに反対論を続けた。

「それは絶対にいけません。見ていてご覧なさい。ひとたび兵隊が仏印に行けば、次には蘭領印度へ進入することになります。英領マレーにも進入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。私はそう感ずる。もし私にご相談になるということならば、絶対にお止めする他ありません」*7

幣原は、フランス領インドシナに進駐することが、オランダ領東インド、イギリス領マレーに侵入することにつながることであると既に指摘していたのである。アメリカ、イギリス、オランダが、経済封鎖に出なかった場合、日本が、このような挙に出たかどうかということは不明だが、これら三国が幣原の指摘したような展開を危惧して封鎖を行い、幣原の予測は現実となったのである。*8
幣原のこのような観測を聞いた近衛は顔面蒼白になって、

「何か他に方法がないでしょうか」*9

と、幣原に重ねて質問したところ、幣原は以下のように答えた。

「もう一度勅許を得て兵を引返す他に方法はありません。それはあなたの面子にかかわるか、軍隊の面子にかかわるか知らないが、もう面子だけの問題じゃありません」*10

会談は、これで打ち切られ、結局のところ、歴史は、幣原の予期した通りの経過をたどったのである。幣原は、この会談を不愉快なものであったと言っている。
近衛は、近衛上奏文などで美化されることも度々あるが、日米戦は近衛政権時の政策によって不可避になったと言っても過言ではないのである。開戦時の宰相として東條英機の責任を問う声は多いが、開戦を決定づけた政策を実行した首相は、近衛文麿なのである。近衛に関しては、一連のやりとりを検討すると、現実認識能力に欠け政策実行力の無い政治家だったという印象を受ける。

*1:d:id:royalblood:20090610

*2:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P209

*3:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P209

*4:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*5:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*6:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210

*7:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P210-211

*8:但し日本は、その後の交渉で、フランス領インドシナ以上への進出する意志はない旨をアメリカに伝えている。また、東條は、ルーズベルトが発した12月7日付けの天皇宛の親電で、フランス領インドシナ進駐について日本に侵略的意図は無かったと信ずると述べている。これに関しては、東條英機の宣誓供述書を取りあげる時にあらためて述べる

*9:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P211

*10:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日 P211