終戦工作の真相【2】

日本の第二次世界大戦に対する、終戦工作に繆斌工作というものがある。これは中国のブローカーを通じた和平工作の話であるが、巷間の本の中では、天皇はこの工作に乗り気でなかったから終戦が遅れた、などという文脈で取り上げられることがある。これについては、重光葵が自著で顛末を書いているので、それをテキストにして所見を述べたい。

繆斌は、蒋介石によって曾つて破門されて、日本軍占領地に居残り、日本軍の利用するところとなって、北京において新民会で会長として働いたことがあり、注兆銘政府樹立の際に、日本軍の推薦によって政府員に加えられた人物である。汪兆銘は曾つて、彼を南京政府に対する裏切行為ありとして逮捕処刑せんとしたことがあるが、日本側の懇請によって助命せられ、且つ引続き政府部内に立法院の副院長として留まることが出来た。*1

当時の中国は、蒋介石中華民国政府(重慶政府)に対して、日本は汪兆銘南京政府を擁立して支持していたが、繆斌は蒋介石に破門されたり、南京政府に対する裏切り行為を行って処刑されそうになったこともあったが、日本によって利用価値を認められ、南京政府にとどまっていた人物であるということである。

彼は南京政府に対し引続き悪意ある策謀をなし、多くは上海にあって、重慶側の知人と連絡をとっておった。日本軍は重慶側の情報を入手するため、彼を諜報機関として利用し、彼が無線機を使用して重慶の知人と連絡することをも黙認していた。繆斌はまたこれを利用し、汪兆銘政府反対の日本側人士と往復して、重慶工作を売物にしていた。彼の立場は、南京政府の取消しと日本の支那撤兵の約束とを取り付けて、蒋介石に帰参を願い、その身を全うせんとするもので、上海における重慶工作ブローカーの一人であった。*2

繆斌は重慶政府と対立している、南京政府の要人でありながら、実は重慶政府と内通しており、日本は、それを知っていたが諜報機関として利用するために黙認していたことが判る。

彼によって重慶工作の実を結ぶことの不可能なることは、現地における日本大使及び軍司令官の一致の意見であった。小磯総理が、昭和二十年三月二十一日水曜日、突然、最高戦争指導会議を開催して繆斌の東京招致を報告し、重慶工作に関する彼の提案を基礎として、彼をして無線を使用し、彼の宿所に当てられた首相の迎賓館から、重慶側の意向を探らしめんとする腹案を披露された時には、一同はその計画の無謀なるに驚いた。記者は、この計画には強く反対した。かかる計画は、従来の決定に違反するものであるのみならず、南京政府を無視するこの種の謀略的計画は、大義名分に反するものであって、且つ到底成功の見込みなきものである。*3

繆斌を利用して和平工作をすることは、現地の日本大使や軍司令官の見解では全く不可能と考えられていたが、東条英機の後を継いだ、小磯総理が昭和二十年三月二十一日水曜日に突如、繆斌を利用して和平をするという提案を行ったと書いている。重光は、当時、南京政府を支持していた日本が、重慶政府と勝手に講和工作をするのは大義名分に反するし、見込みが無いと反対したことがわかる。

然るに、四月三日突然宮中より招致されて、御前に出た記者は、天皇陛下より、昨日小磯総理が政務内奏の際、繆斌来朝のことに言及し、彼によって重慶工作を進むることとし度き旨を説明し、朕は、和平工作の如きは繆斌を通じて出来ることではない、この際謀略的手段を執ることは全局上不可であることを諭したが、総理はこれを聞き入れぬ、よって、今朝先ず陸軍大臣の意見を徴したところ、陸相は反対意見を表示し、また次いで海軍大臣も、一国の総理がかような手段を弄するは遺憾である、と強く反対したが、外務大臣の意見は如何、との御下問があった。*4

昭和天皇の批判材料になることがある、繆斌工作に対する天皇の反対意見であるが、繆斌を通じて和平工作をすることなど、到底不可能であるし、南京政府を無視した謀略的手段を執ることが良くないという常識的な観点で反対されていたことがわかる。その後、重光が小磯総理を訪問して繆斌工作中止の線で説得したということである。
また、天皇自らのこの件に関する所見を紹介したい。

これは一国の首相ともある者が、素状の判らぬ繆斌と云ふ男に、日支和平問題に付て、かゝり合はうとした問題である。重光〔葵〕は前から繆斌を知つてゐた。彼は最初は汪〔精衛〕と行動を共にしたが、後では汪を見捨てた不信の男である。当時日本は危機で、所謂溺れる者は藁をも把む時ではあつたが、筍くも一国の首相ともあるものが、繆斌如き者の力によつて、日支全面的に和平を図らうと考へた事は頗る見識のない事である。*5

繆斌は最初は、注兆銘と行動を共にしたが、後では注兆銘を裏切っている不審の男であり、素性もわからない。このような男に和平工作を託そうとは、溺れるものは藁をもつかむ時期であったが、一国の首相として、大変見識のないことであったと批判している。

彼は蒋介石の親書を持つて居らぬ、元来重慶工作は南京政府に一任してあるのだから日本が直接この工作に乗り出す事は第一不信な行為である、まして親書を持たぬ一介の男に対して、一国の首相が謀略を行ふ事は、たとへ成功しても国際信義を失ふし、不成功の場合は物笑ひとなる事である。*6

また、重慶との関係は南京政府に一任している以上、日本が直接工作に乗り出すことは不信行為であり、蒋介石の親書ももたない相手に謀略工作を行っても、成功しても国際信義を失うし、不成功ならば物笑いのたねになることであると言っている。
この件については、木戸、梅津、重光、米内、杉山といった要人も反対であり、小磯総理を呼んで中止するように申し渡したとある。
また、この事件の顛末を重光は以下のように締めくくっている。

なお、繆斌は、終戦支那政府から捕えられて反逆罪に問われ、直ちに処刑された。その時の支那の裁判に対し、戴笠は繆斌との一切の関係を否定したのであった。*7

繆斌はこのように、最後は、中華民国政府により反逆罪で処刑されたのである。その際、繆斌の重慶政府とのパイプ役であったはずの戴笠は一切の関係を否定したともしている。スパイの末路に相応したものであろう。
長々と書いてきたが、繆斌工作は小磯総理が、突如ぶちあげた和平工作であり、南京政府を裏切ることになる上、和平など覚束ないものであったと考えられ、このような工作を進めなかったのは当然といえるだろう。

*1:重光葵 『昭和の動乱』下 中公文庫 2004年7月10日 P282

*2:重光葵 『昭和の動乱』下 中公文庫 2004年7月10日 P282

*3:重光葵 『昭和の動乱』下 中公文庫 2004年7月10日 P283

*4:重光葵 『昭和の動乱』下 中公文庫 2004年7月10日 P283-284

*5:昭和天皇独白録』 文春文庫 1995年7月10日 P125

*6:昭和天皇独白録』 文春文庫 1995年7月10日 P124-125

*7:重光葵 『昭和の動乱』下 中公文庫 2004年7月10日 P285