スパイ・ゾルゲが見た日本【1】・天皇制

今回から4回程度の分量で、ゾルゲの見た日本をテーマに書いてみたい。
ゾルゲとは誰かというのは、このブログに興味を持つくらいの方なら御存知の方も多いと思うが、戦前日本でドイツ人の新聞記者として活動していたが、実態はソ連のスパイであったという人物である。彼は、ドイツ大使館に自由に出入りするためのコネクションがあり、協力者として尾崎秀実、西園寺公一といった有力な情報源を持っていたため、日本の対ソ連参戦が無いことをソ連に通報するといった、ソ連の諜報員として優秀な実績をあげていた。一方で、彼は、表の顔としての日本評論や、獄中手記など、著作の中には史料としての価値が高いものがある。
今回は、ドイツの『政治学雑誌』1939年8-9号に「日本の政治指導」として載せられた論文に拠って、同時代の外国人が認識していた天皇制について紹介したい。

この「全体的君主制」、すなわち天皇の一身に綜括される政治的および軍事的指導の一体性、国家元首と日本の始祖の神ながらの子孫との一体性は、国家の日常の政治生活に天皇みずからが介入することを禁じている。*1

国家元首と宗教的な現人神としての天皇は、国家の政治に天皇が直接介入することを禁じられていたとゾルゲは述べている。

それだから、天皇の名において行動し、国民の政治生活の実際上の諸任務を解決することになっている「受任者」の制度が必要となる。*2

天皇が、国政への介入を禁じられているからこそ、天皇の代わりに、実際の政治を切り回す受任者、代行者を日本は必要としていると述べている。
蛇足かと思うが、この代行者の規定は大日本帝国憲法上に規定されていた。

・各大臣は天皇を補弼する責任を持つ (第55条)
・全て法律勅令、その他の詔勅国務大臣の副署を要す (第55条2)

天皇の補弼者として各大臣を置き、各国務大臣の署名が無き場合、天皇詔勅と雖も効果を発揮しないという形式で、かつての日本の統治システムは形づくられていた。
もっとも、天皇は、如何なる場合でも、大権を行使できないとはゾルゲは語っていない。

民族の運命が危殆にひんするとか、「受任者」がどのような決意にも到達できないとか、まれな例外の場合にだけ、天皇はいわゆる「御前会議」に、みずからの意志形成と決意によって関与する。この御前会議は、明治維新いらい六回しかなかったものである。*3

輔弼の任にあるものが決断できない時、民族の運命が危殆に瀕するような時には、例外的に「御前会議」を開いて意志形成と決意によって関与することができ、1939年時点で過去六回の御前会議が開かれていたという事実について語っている。このような「例外」の例については、過去の日記でも書いている。
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このようにゾルゲの天皇制解釈を取り上げてみると、基本的には、天皇は自ら意志決定する存在では無いという認識があったということがわかる。
ところで、近年話題になった戦前の天皇制についての本にピーター・ウェッツェラーの『昭和天皇と戦争』というものがある。新しいアプローチからの研究に、私も新鮮に感じる部分があった本だが、この本の中で、端的にウェッツェラー氏の天皇制観を示した表現として以下のような箇所がある。

日本の多元主義的政治にエリートのひとりとして参加することが彼*4の役割であった*5

字句そのものに間違いがあるとは思わないが、ゾルゲが既に戦前に論評していたような事実や、「日本的」な上下関係を理解せずに、これらの字句をそのまま受け止めると、ミスリードされる可能性があると思われる。私がウェッツェラーの論評で秀逸だと思ったのは、天皇は、家の存続を至上目的にしていたということを指摘している点。これはシャープな指摘であると思う。そもそも、天皇家明治維新においては錦の御旗として「担がれた」のであり、天皇を「担いだ」ことに関しては、担いだ方にも、担がれた方にも利益があったと思われるが、天皇は大権を獲得するために、自らの実力で徳川幕府を排除し明治政府を作ったわけではないのである。明治維新の功労者も、実質的な天皇親政による統治体制を目指していたわけではない。それは、本日引用した帝国憲法の条項を見てもわかるし、首相の決定手続すら明文化しなかったことからも見てとれる。首相の決定に関しては、明文化して公平化しない方が都合がよかったのか、元老というリーダーシップが存在していたために明文化する必要を感じなかったのかは判断しがたいが、元老*6による推薦を天皇が裁可するということで既得権化されていた。このように、明治維新の功労者であった、元老に依存するシステムであったがために、大日本帝国はリーダーシップの源泉であった元老というカリスマが時の流れと共に消滅していくにつれて、迷走していったように思う。また、天皇代理人であるはずの首相の権限も、本人に、自分自身が元老であるというような、強力なバックボーンが無い限り、反対勢力に有力者がいる場合には、自己の政策を貫徹出来るほど強くは作られていなかった*7。このような草創期における、政策的な不作為の結果として、何となく、その場その場の世論やムードに流されて、政策を実施せざるを得なくなるという、帝国末期におけるリーダーシップの欠如が起こったように思う。このような状態で採用された政策が良くないものが結果として多くなってしまうのは当然の帰結である。軍部大臣現役武官制が悪かった、統帥権の独立が悪かったなどといった議論は良くされるが、そういった問題も、この問題に比べると枝葉末節のものに過ぎないのではないかと思う。

*1:みすず書房編集部 『ゾルゲの見た日本』 みすず書房 2003年6月2日 P143

*2:みすず書房編集部 『ゾルゲの見た日本』 みすず書房 2003年6月2日 P143

*3:みすず書房編集部 『ゾルゲの見た日本』 みすず書房 2003年6月2日 P143

*4:天皇

*5:ピーター・ウェッツェラー 『昭和天皇と戦争』 原書房 2003年6月2日 P51

*6:元老が全員亡くなった後は、首相経験者群である「重臣」がこれに代わった

*7:このあたりは、『岡田啓介回顧録』や『古風庵回顧録』あたりが詳しい