無条件降伏要求についての同時代人所見【3】

前二回は連合国側の要人の回顧録であったが、今回は枢軸国側の人物がどう感じていたかについて取り上げたい。今回、取り上げるのは、ドイツ国防軍ハインツ・グデーリアン上級大将の回想録である。グデーリアン将軍に対しては、多くを語る必要はないと思われるが、近代機甲戦術の確立に貢献した人物であり、西方戦役、対ソ戦で前線指揮を取ったのち、上層部と衝突し罷免、後にヒトラーに乞われて、装甲兵総監、参謀総長事務取扱*1をつとめた人物である。グデーリアン将軍は、当時の無条件降伏要求のドイツでの受け止められ方について、次のように述べている。

そして一九四三年一月十四日から二十四日にいたる一〇日間、ローズヴェルトチャーチルは『カサブランカ会談』を行ない、無条件降伏を要求してくるという、われわれにとって無視しえない重要な決定をした。ドイツ国民、ことにドイツ軍に対する苛酷な要求を突きつけたこの会談の影響は、きわめて深刻であった。とくに軍人のあいだでは、連合国側は、もはやドイツ民族そのものを抹殺する決意を明らかにしたものと受けとられた。*2

無条件降伏要求は、民族滅亡につながりかねない要求であり、徹底抗戦せざるを得ないと考えていたことがわかる。また、1944年8月25日、パリ陥落に際しての抗戦続行についても、当時の心境を以下のように語っている。

防御戦をつづけなけれぽならないことは、ヒトラーにもその幕僚にも疑問の余地はなかった。また敵軍全部、もしくは東西の両敵と個別に交渉しようとする考えは、すでに連合軍が一体となってドイッの無条件降伏を要求している実状からして無意味であった。またわれわれが専守防衛に努めるならば、相当期間抵抗をつづけることはできるだろうが、有利な終戦を迎えることはほとんど期しがたかった。*3

相当期間抵抗を続けることはできようが、全体的には、既に望みのない戦局となっているにも関わらず、無条件降伏要求のため、和平交渉を始めることが問題にもならなかったことが窺えるのである。
更に具体的なドイツ敗戦時の処理についても以下のように述べている。

一九四四年十二月十四日に、チャーチルポーランドに対し、東プロイセンと(ロシヤに与えるべきケーニヒスベルクを除外して)ダンチヒ、そして二〇〇キロにわたるバルト海沿岸の領有を約束し、そのうえ〃ドイツの犠牲において、その国境を西方に拡張する〃自由を認めたのである。彼の言葉をそのまま引用すると、「東から西および北に向かって幾百万の人間の移動が行なわれ、そのためにドイツ人は追い立てられることになる。すなわちポーランド人が西方および北方に定住することで、その地域から全ドイツ人を追放することになる。けだし民族の混清は望ましくないからである」かくのごとき提案が現実になされていたのである!*4

西プロイセンは、ドイツ騎士団以来、ドイツ系民族が定住していた地域であり、長く、ドイツの領地となっていた領域でもあった*5。また、これらのドイツ領占領とドイツ系民族の追放は実際に実行されたのである。「民族の混清は望ましくないからである」云々の節はナチスユダヤ人迫害を思わせる節もあり、少々皮肉を感じる内容である。
更にグデーリアンは以下の1945年1月18日の以下のチャーチルの発言を引用している。

われわれがまだ弱者の立場にあったときに宣言したこの声明を、強者の地位に立った現在、なぜ変更しなけれぽならないのであろうか。私には、無条件降伏を譲歩しなければならないなんらの理由も存在しないということだけは、はっきりしている。すなわち、ドイッおよび日本に対する無条件降伏の要求を制約するような、なんらかの交渉に入るべき根拠はまったく存在しない。*6

1945年初頭の段階において、アメリカに端を発した無条件降伏要求に対して、チャーチルは少なくとも表面上は徹底支持の姿勢をとっていたことを示している。前回述べたようにチャーチルが日本に対して、実際に無条件降伏要求の緩和を提案したとすれば、どのような考えであったのであろうか。ドイツ戦での損耗から考えが変わったのかもしれないが、明白には語られていない。

*1:この時期、ヒトラーの意向で正式の参謀総長は置かれなかった

*2:H・グデーリアン 『電撃戦』 フジ出版社 1980年11月25日 P284

*3:H・グデーリアン 『電撃戦』 フジ出版社 1980年11月25日 P386

*4:H・グデーリアン 『電撃戦』 フジ出版社 1980年11月25日 P284

*5:西プロイセンについてはポーランド支配下にあった時期も長い

*6:H・グデーリアン 『電撃戦』 フジ出版社 1980年11月25日 P284-P285