アメリカは真珠湾攻撃を察知していたか【1】

これも太平洋戦争開戦にあたって、最終的な局面で日米交渉に従事した来栖三郎が、開戦後、アメリカ抑留中に見聞した資料をもとに書かれた回想であるが、なかなか興味深い内容である。

自分が抑留生活中に読んだ新聞記事などの中で、自分の注意を惹いたものも少なくないが、その中でも、一九四二年四月二十五日の米国各新聞に発表せられた真珠湾襲撃に関するロバーツ委員会報告書は、その著しいものの一つに数え上げることが出来る。自分は、当時この報告の重要な箇所にいちいちアソダーラインを引いて精読したが、そのうちでも冒頭の第三節で「合衆国ノ太平洋政策ハ他ノ若干国政府ノ政策ト衝突シ居リ、米国陸海軍省ハ右衝突セル諸政策ガ協調セラレザル限リ太平洋戦争ハ不可避ナリト自覚シ居リタリ」と述べている点、同七節で開戦の際日本はまず真珠湾における艦隊を奇襲し来るべきこと、右奇襲は未明なるべきこと、第八節で日本側は宣戦布告を待たずして襲撃し来るべきことなどを予期していたと述べている点、および第九節で十一月二十七日海陸軍首脳部はそれぞれハワイにおける司令官に対し、日本との交渉は再開の望みほとんど絶無なる状態において終結したり、と通告している点などは、当時この報告を読んだ自分をして、その率直さに驚かされたのであった。*1

つまり、来栖三郎がアメリカ抑留中に米国の新聞で読んだところの、ロバーツ委員会報告書によれば、

  • 米国側は太平洋戦争は不可避であると判定していた
  • 開戦の際、真珠湾を未明に奇襲することを予測していた
  • 日本は宣戦布告を待たずに襲撃してくることを予測していた
  • 1941/11/27にはハワイ司令官に交渉で決着する望みはないと通告

以上の判断、連絡をしていたので、日本側の計画は予測の範囲だったということになる。
当方は専門家では無いので、当時のアメリカ新聞まで調査することはできないが、この内容が正しければ、真珠湾作戦を察知していたか否かなどという論争は疑問の余地が無くなるであろうと思う。

*1:来栖三郎 『泡沫の三十五年』 中央公論社 2007年3月25日 P153-154