典型的な見方と異なる東條英機観

前日、東條英機関連の話題を書いたので、今日も関連する話題を続けることにする。
一般的に東條は度量が小さく陰険な人物というように今日では考えられている。過去、反東條的な立場だった、細川護貞が書いた『細川日記』などもパラパラ読んだことがあるが評価は散々なものである。しかし、前日とりあげた、来栖三郎や、今日、取り上げる小汀利得などの回想を読んでみると、こういった見方は一方的なものなのではないかと考えさせられる。

これが大東亜戦争に突入すると一段と激しくなった。一般記事には内閣情報局というものができて言論を統制し、軍部では陸海軍の大本営報道部から一方的に発表の押し売りをするのだ。ところでこれも悪名の高かった東条英機大将は世間でいうほど悪い人間ではなかった。東条とは菊池寛久米正雄とぼくとで座談会をしたことがあるが、軍部といえども新聞社を敵に回すべきではないという態度がうかがわれた。またある人から「東条は小汀という男は言論界の一方の雄であるから、つまらぬことでうるさく言うな」といっていたということを聞かされた。*1

東條と直接接した印象では、世間で言われるほど悪い男とは思われなかったし、むしろ言論界に対して、寛大な一面すらあったと述べているのだ。
更に、言論統制をしようとする憲兵少佐を引き合いに出して、「ヘッポコ軍人」と東條の姿勢との違いを浮き彫りにしている。

そんなわけだから、東条時代は例によって憲兵隊へ呼ばれた時、チンピラ少佐が「こういうことを書くと東条閣下が怒ります」というから「それじゃぼくが東条さんに会おう」というと「それには及びません」と引っ込んでしまう。まさにこれなんかはヘッポコ軍人の標本だ。*2

この小汀利得という人は、当時、日本経済新聞社の編集局長だった人だが、戦後の回想であるにも関わらず、それなりに度量の大きい人物だったと東條を評していたのだ。
末端では、東條の考えと異なるような行為がなされていて、それが全て東條の意志であったと誤解されているような一面があるのではないかとも思う。

*1:私の履歴書−反骨の言論人』 日本経済新聞社 2007年10月1日

*2:私の履歴書−反骨の言論人』 日本経済新聞社 2007年10月1日