平和憲法をめぐる当事者の回顧

戦争放棄を含む、日本の平和憲法については、アメリカ・連合国による押しつけ憲法であったというようにいわれることが多い。
しかし、当事者の回顧録によれば、このような見解を否定している。
日本憲法成立起草時の、内閣総理大臣は、幣原喜重郎であったが、彼はこのようにのべている。

私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮んだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないということは、他の人は知らないが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうではない、決して誰からも強いられたのではないのである。*1

また、当時の連合国側の責任者であった、マッカーサーも、ほぼ同様の内容を語っている。

 幣原男爵は一月二十四日(昭和二十一年)の正午に、私の事務所をおとずれ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと私は男爵がなんとなく当惑顔で、何かをためらっているらしいのに気がついた。私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ、何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに少しも遠慮する必要はないといってやった。
 首相は、私の軍人という職業のためにどうもそうしにくいと答えたが、私は軍人だって時折りいわれるほど勘がにぶくて頑固なのではなく、たいていは心底はやはり人間なのだと述べた。
 首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。
 首相はさらに、日本は貧しい国で軍備に金を注ぎ込むような余裕はもともとないのだから、日本に残されている資源は何によらずあげて経済再建に当てるべきだ、とつけ加えた。*2

概ねマッカーサーと幣原の言っている内容は一致している。後で口裏を合わせただけという見方もあるだろうが、当時の日本人が戦争に倦んでいたことを考えると、一概に押しつけられたなどとは言い難いだろう。後の吉田内閣は日本の再軍備を拒否したと伝えられる。

*1:幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 2007年1月25日改版

*2:D・マッカーサーマッカーサー大戦回顧録 下』 中公文庫 2003年7月15日