ABCD包囲網考【5】・オランダとの交渉経過

オランダが対日経済制裁に参加したことは前日取りあげたチャーチル回顧録のみを見ても明らかだが*1、何故かオランダは日本を経済制裁などしておらず、日本が自主的に取引をしなかっただけであるといったような議論を見かけることがある。例えば以下のような内容である。

ABCDのうちのD=オランダとの間では、日本は一旦買い付け交渉を成立させておきながら1941年6月に日本側の都合で交渉を打ち切っているのであり、オランダが日本に対して経済制裁したわけではない*2

こういった議論は事実の一部しか知らずになされている議論である。オランダとの交渉が不調だったため日本側から交渉を1941年6月に打ち切ったのは事実であるが、その後、日本の南部フランス領インドシナ進駐を受けて、オランダは1941年7月にアメリカとイギリスに引き続いて対日経済制裁を開始したのである。今回は、その打ち切られた交渉の内容を追ってみたい。
オランダとの交渉の件に関しては、来栖三郎が回顧録で多少の文章を残しているので、それを引用したい。以下の内容は、交渉関係者であった石沢総領事からの伝聞として書かれている。

オランダ側は石油の輸入量についても新油田の開発についても、日本の要求を全部容認した*3

この記述からは、オランダは石油の輸出と油田の開発について、日本の要求を全て容認していたということがわかる。では、何故、日本側から交渉を取り止めたのかということが疑問に浮かぶが、これに関しても来栖は著書の中で述べている。

あの時、日蘭交渉が成立しなかったのは、ある種の物資に対する日本の要求が日本自身の所要推定量を超えているので、蘭印側としては当時オランダ本国を占領している敵国ドイツに転送されることを恐れて、その物資について日本自身の合理的所要推算量以上の輸出を拒んだためであると聞いている。*4

つまり、石油以外の軍需物資の要求量が大きかったため、オランダ側は日本の同盟国であるドイツに軍需物資が流れることを懸念し、日本側の要求の全ては容認しなかったために交渉が不成立に終わったということがわかる。なお、来栖自身はオランダ側の容認した通りに調印しておけば石油物資の欠乏は避けられたのではないかと考察している。
この交渉打ち切りに関しては『大東亜戦争全史』にも1941年6月11日に決定した「南方施策促進に関する件」として記述がある。

当日朝、芳沢大使*5より、尚多少交渉の余地ある旨の電報も到着し、蘭印の現に応諾した条件に基き、一応調印するか否か、若干の論議があつたが、調印しても大なる効果なく、却つて仏印及び泰に日本の弱腰を見透かされる不利ありとして、調印せざることに決論せられた。*6

つまりオランダ側の応諾した範囲で交渉を成立させる余地はあったが、日本の弱腰と見られることをおそれて調印しなかったというのである。交渉に対する、こういう考え方は如何なものかとは思うが、いずれにせよ、オランダとの交渉を不満足であるとして日本側が打ち切ったのは事実であるが、その後、オランダが対日経済制裁を行ったというのも事実なのである。

*1:d:id:royalblood:20090601

*2:ノート:ABCD包囲網 - Wikipediaに存在した議論を参考に筆者が書き直した

*3:来栖三郎 『泡沫の三十五年』 中央公論社 2007年3月25日 P215

*4:来栖三郎 『泡沫の三十五年』 中央公論社 2007年3月25日 P215

*5:オランダとの交渉にあたっていた

*6:服部卓四郎 『大東亜戦争全史』 原書房 2007年6月25日 P70-71